沿革
明治33年(1900年) | 江夏芳太郎が宮崎県都城市倉の馬場にて米穀・荒物・雑貨商を創業。 |
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明治38年(1905年) | 都城市上町二丁目に江夏商店を創設。初代社長に就任。 |
昭和4年(1929年) | 江夏芳太郎、都城商工会議所初代会頭に就任。 |
昭和10年(1935年) | 江夏眞二が二代目社長として(名)江夏商店を設立。 |
昭和16~20年(1941年~1945年) | 太平洋戦争 |
昭和29年(1954年) | 江夏昇が三代目社長に就任。同時に社名を(名)江夏芳太郎商店に改名。 |
昭和43年(1968年) | 江夏産業(株)を設立。養鶏業を開始。 |
昭和45年(1970年) | 本社を都城市上町より同市花繰町へ移転。 社名を江夏商事(株)に改名。 |
昭和53年(1978年) | ジャパンミート(株)およびクリーンファーム(株)を設立。食肉事業を拡大。 |
昭和63年(1988年) | 江夏ヤス会長、藍綬褒章を受章。 |
平成4年(1992年) | 江夏昇社長、黄綬紋褒章を受章。 |
平成6年(1994年) | 江夏昇が会長に就任し、江夏俊太郎が四代目社長に就任。 |
平成11年(1999年) | 宮崎サンフーズ(株)を設立。ブロイラー処理・販売を開始。 |
平成13年(2001年) | 酒類・食品卸売事業を移譲。 |
平成15年(2003年) | 石油部門が江夏石油(株)として分社。 |
平成19年(2007年) | (有)薩摩チキンフーズを事業継承(現さつま事業所)し、生産体制月産100万羽を達成。 |
平成20年(2008年) | 単味飼料事業を移譲。 |
平成28年(2016年) | 東京支店開設。 |
平成30年(2018年) | 養豚事業を移譲。 大阪支店開設。 江夏俊太郎が会長に就任し、岩崎和也が五代目社長に就任。 |
令和元年(2019年) | 江夏商事ホールディングス(株)設立、江夏商事(株)本社を宮崎市大塚町に移転。 |
令和3年5月(2021年) | センターフーズ株式会社(食肉製品製造・加工業)を設立し、7月より営業開始。 |
令和3年12月(2021年) | 株式会社入来運送の株式を譲受(現:ひなたライン株式会社) |
令和5年10月(2023年) | 鹿児島サンフーズ株式会社(鶏肉の生産・処理・加工及び販売業)を設立し、12月より営業開始。 |
創業者 江夏芳太郎について
都城商工会議所の初代会頭を務めるなど、地域の振興に尽くした江夏芳太郎は、仏教に信仰深かった両親のもとに生まれました。
それ以上にまた信仰深かった芳太郎は、自らの体験談に基づく處世十訓を残しました。現在でもこの處生十訓の考えは、江夏商事グループにおいて、しっかりと受け継がれています。
それ以上にまた信仰深かった芳太郎は、自らの体験談に基づく處世十訓を残しました。現在でもこの處生十訓の考えは、江夏商事グループにおいて、しっかりと受け継がれています。
都城商工会議所の初代会頭を務めるなど、地域の振興に尽くした江夏芳太郎は、仏教に信仰深かった両親のもとに生まれました。
それ以上にまた信仰深かった芳太郎は、自らの体験談に基づく處世十訓を残しました。現在でもこの處生十訓の考えは、江夏商事グループにおいて、しっかりと受け継がれています。
それ以上にまた信仰深かった芳太郎は、自らの体験談に基づく處世十訓を残しました。現在でもこの處生十訓の考えは、江夏商事グループにおいて、しっかりと受け継がれています。
若くして商才発揮
江夏芳太郎は、明治7年(1874年)7月、計佐吉の三男として都城市西町に生まれました。
8歳の頃から学校に通う傍ら、母親のつくった飴を小売店へ配達したり、魚や野菜の触れ売り(商品をかつぎ、声を出して売って歩くこと)をしました。
芳太郎は、小学校の初等科を首席で卒業しましたが、病気のため進学は諦めました。その後は、昼間は店を手伝い、夜は読書に時間を費やしました。
14歳の頃、商売の勉強のため鹿児島にいた芳太郎は、ある日、海が荒れているのをみて、前夜大漁で大きく値下がりした鰤を大量に買い占めました。そして、危険を冒して都城に送り、大きな利益を上げて大人たちを驚かせました。
8歳の頃から学校に通う傍ら、母親のつくった飴を小売店へ配達したり、魚や野菜の触れ売り(商品をかつぎ、声を出して売って歩くこと)をしました。
芳太郎は、小学校の初等科を首席で卒業しましたが、病気のため進学は諦めました。その後は、昼間は店を手伝い、夜は読書に時間を費やしました。
14歳の頃、商売の勉強のため鹿児島にいた芳太郎は、ある日、海が荒れているのをみて、前夜大漁で大きく値下がりした鰤を大量に買い占めました。そして、危険を冒して都城に送り、大きな利益を上げて大人たちを驚かせました。
米穀商となる
芳太郎は、26歳で独立して都城市倉の馬場(現上町)に店を構えて米穀商となり、米の品質改良と市場での米価向上を強く訴えました。なぜなら、明治維新以降、宮崎県の米は品質が落ち、「粗悪劣等」というレッテルを貼られ、値段も安く設定されていたことから、日向米の名声をなんとか高めたいと考えたからでした。
芳太郎は、「日向米の品質を高めるために県営検査を実施すべきだ」と主張しました。
芳太郎の意見は県会でも取り上げられ、有吉知事の時代に県営米穀検査が実施されました。
このような努力が実り、大正10年(1921年)には日向米の評価が高まり、各県産米優劣番付で小結の地位を獲得するまでになりました。
芳太郎は、「日向米の品質を高めるために県営検査を実施すべきだ」と主張しました。
芳太郎の意見は県会でも取り上げられ、有吉知事の時代に県営米穀検査が実施されました。
このような努力が実り、大正10年(1921年)には日向米の評価が高まり、各県産米優劣番付で小結の地位を獲得するまでになりました。
観光に尽力
大正15年1月、子どもを亡くした芳太郎は、その忌明け記念として母智丘に桜を千本寄贈し、母智丘神社の参道をつくり両側に植付けました。現在では、母智丘公園の桜並木は、有数の桜の名所として知られています。
また、昭和2年(1927年)6月に「国立公園法」が施行され、霧島連山が国立公園の候補地になりました。芳太郎は、百回以上登った霧島連山を国立公園にするため、自身の資金で写真帖『霧島』をつくり、関係者に配りました。こうした芳太郎らの努力が実り、昭和9年、「瀬戸内海」、「雲仙」とともに「霧島」はわが国最初の国立公園に指定されました。
また、昭和2年(1927年)6月に「国立公園法」が施行され、霧島連山が国立公園の候補地になりました。芳太郎は、百回以上登った霧島連山を国立公園にするため、自身の資金で写真帖『霧島』をつくり、関係者に配りました。こうした芳太郎らの努力が実り、昭和9年、「瀬戸内海」、「雲仙」とともに「霧島」はわが国最初の国立公園に指定されました。
都城商工会議所初代会頭に選ばれる
さらに芳太郎は、関之尾滝があまり知られていないことに嘆き、庄内町役場と交渉し、道路改修などの協力を行っています。
また、昭和4年、都城商工会議所が創立されると芳太郎は、初代会頭に選ばれ、15年の間その職を務めました。
そして、昭和27年4月、都城市で開かれた九州産業振興博覧会に際し、産業功労者として表彰されました。
芳太郎は、昭和29年11月に79歳で亡くなりました。
また、昭和4年、都城商工会議所が創立されると芳太郎は、初代会頭に選ばれ、15年の間その職を務めました。
そして、昭和27年4月、都城市で開かれた九州産業振興博覧会に際し、産業功労者として表彰されました。
芳太郎は、昭和29年11月に79歳で亡くなりました。